懇切丁寧に!をモットーに、
子供からお年寄りの方まで、
すべての方に
満足してもらえるように、
常に心がけています。

院長笹木 一司

院長笹木 一司

  • 院長略歴

    • 平成5年3月 東北大学歯学部 卒業
    • 平成5年4月 秋田県中通病院歯科勤務
    • 平成6年4月 原町市仲町歯科勤務
    • 平成8年1月 いわき市にて笹木歯科 開業
  • 所属団体

    • 日本ヘルスケア歯科研究会会員
    • 日本一般臨床医矯正研究会会員
    • 床矯正研究会会員
    • 国際歯周内科学研究会会員
    • 東北SJCD会員
    • [アストラテックインプラントエクゼクティブインストラクター]
    • 極真空手協力医
    • 国際審美学会会員
  • 極真空手協力医

    極真空手の協力医として指定のマウスガードを作製しております。
    マウスガードは衝撃を吸収する柔軟な素材を使用していますので、歯や歯肉を外傷から守ります。また、アスリートが歯をくいしばり力が発揮できるように、かみ合わせのバランスの機能も合わせもっております。
    あのK-1の選手も使ってます。

UPBRINGING

自分史

笹木 一司の生い立ち

  • 幼稚園時代

    幼稚園時代の一番の楽しみは帰り道でした。今のようなスクールバスもない時代でしたので、2キロの道のりを、ひたすら歩いて帰りました。
    周りは、田んぼが続き、小川が流れていました。
    小川には、ドジョウやフナ、そしてメダカが泳ぎ今思えば、楽園のようでした。
    幼稚園児には、なかなか素手では、ドジョウやフナは捕まえられませんが、メダカなら何とかなりました。毎日、泥だらけになってメダカを捕まえ、履いていた靴の片方に入れて、家まで持って帰っていきました。
    そんな平穏なある日、大事件が起きました。帰り道で、友達が小学生にいじめられていました。

    怖いもの知らずの幼稚園児の私は、果敢にも小学生に真っ向から挑みました。
    ただ相手も強者です。あっと思った瞬間、角のとがった石が飛んできました。そしてその石は、見事に私の額を直撃しました。見る見るうちに血が吹き出し、気づけば病院にいました。 今でも、額にはその時の傷が残っています。

  • 小学生時代

    小学生時代は、好きな科目は図工と体育でした。
    小学2年生のときに、写生をした絵が県で特選になり、両親が非常に喜んでくれたことを覚えています。
    ちなみに、その年のクリスマスプレゼントは絵具と筆でした。
    体育は、幼稚園時代に鍛えた脚力のおかげか、毎年リレーの選手に選ばれ、小学6年生の時には小学校の代表として、小体連のリレーで活躍しました。
    でも、一番の思い出は、何と言っても低学年まで過ごした場所での思い出です。
    田んぼがあり小川が流れ自然があふれていました。小学3年生で引っ越すまで、その場所に住んでいました。 駄菓子屋に行ってくじを引いたり、時折来る焼き芋屋で石焼き芋を買うのが、最高の楽しみでした。あまり裕福ではありませんでしたが、心は満たされていました。 ちなみに当時のなりたい職業は、焼き芋屋でした。

  • 中学生・高校生・大学生時代

    中学では、部活は卓球部に入り、3年間辞めずに継続し部長として活躍しましたが、不完全燃焼でした。勉強は、英語と数学が得意でしたが、最高の結果を残すことはできませんでした。スポーツも勉強も、どうしても勝てない相手がいるために、十分に努力もせず、諦めてしまったからです。

    中学2年の時に、自分の人生に関わる出来事がありました。
    父親が胃癌になってしまったのです。幸い一命は取り留めましたが、胃をほとんど失い生死をさまよいました。 このとき、自分は将来医者になり、人助けをしようと決心しました。

    しかし、父が元気になるにつれて、その時の決心が薄らえていきました。 勉強もろくにしないまま、あっという間に高校3年間が過ぎていきました。そして自分が出した進路は、工学部でした。父が中堅ゼネコンの支店長をしていた関係で、コネで何とかしようと考えていたからです。まさに敗者の発想でした。 1浪後、日大の土木科に入学しました。

    しかし、入学後すぐに、違和感を覚えました。「自分がやりたいのは、土木ではない!」「医者になろう!」と再度決心しました。 ただ、これ以上親に負担はかけられないので、私立は諦めました。国立を目指して、一から勉強を始めました。
    しかし、科目数が多く、難易度が高い医学部には、運やコネでは入れません。

    そこで私は、ある作戦を立てました。自分の行動を制限しているリミッターを外し、年間・月間・週間計画を立てました。その結果、医学部から歯学部への変更はありましたが、幸い第一志望の東北大学に合格できました。
    この受験で確信したことは「願いを常に強く意識すれば、夢は叶う」ということでした。大学に入って驚いたことは、自分よりも苦労をし、他大学やサラリーマンを経ながら強い目的意識を持っている方が非常に多いということでした。 こういう方との出会いは、自分の人生に大きな影響を与えました。そして大学の6年間は、あっという間に過ぎ進路を決める時期になりました。ほとんどの学生は、大学院に進むか医局に残りましたが、自分は、迷わず勤務医を選びました。
    理由は、早く一人前になり、歯の悩みを抱えている患者さんの手助けをして、社会に貢献したかったからです。

  • 勤務医時代

    卒後、医療法人を経営している先輩のところで勤務することになりました。
    秋田の総合病院に併設されていましたので、全身疾患も学べ大変勉強になりました。
    また、頭が切れる先輩でしたので、毎日驚きの連続でした。さらに歯科衛生士と歯科助手の役割分担が明白で、効率よく無駄の少ないシステムでしたので、たいへん参考になりました。当院のシステムの礎にもなっています。
    こちらには、一年間勤務しました。
    また、ここで歯科衛生士の妻とも出会いました。二年目は、福島に戻り一般開業医で分院長をさせていただきました。
    今まで経験していなかった、衛生士業務やレセプトの事務手続きなど開業までの有意義な一年間を過ごさせていただきました。

FUTURE

笹木クリニック開業
そしてこれから・・・

1996年の1月にユニット3台、歯科衛生士1名(妻)、歯科助手2名で開業をしました。 当時のコンセプトは「懇切丁寧をモットーに、できるだけ痛みのない治療を心がける」というものでした。 予想よりも患者さんが多く、初日から30名以上の来院がありました。 その後も右肩上がりに患者さんが増え、1年後には、ユニットを一台追加しました。

ただ、よいことばかりではありませんでした。患者さんとのコミュニケーションが不足して、次第に待ち時間が長くなってきました。原因は、スタッフ不足(特に衛生士)と削って埋める治療がメインで、ドクター待ちが増えたためでした。その後、2006年に大きな転機が訪れました。ある先生との出会いから始まりました。その先生とは、山形県酒田市の熊谷先生です。今までの痛い時だけ来院して治療するシステムから、治療後に悪くならないよう予防して行こうというシステムを日本に紹介した先生です。さらに2008年から始めた、歯周病を内科的治療で治すシステムにより、虫歯と歯周病の治療後は、健康な状態をそのまま維持して予防で対応する流れが、当院に構築されました。

2010年に移転があり、ユニット8台、歯科衛生士11名、保育士3名、歯科助手1名で対応しています。

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    一生健康で快適な食生活が送れるように、極力削らない、抜かないをモットーに予防に力を入れて、皆様のお口の健康を守り育てる医療を目指していきます。

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    コミュニケーションを大切にし、患者様が十分納得できる治療を行います。

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    全ての患者様が、最善で最新の医療を受けられるよう、スタッフ一同常に努力し、研鑽を積んでいきます。

これからは、患者様はもちろんスタッフも、当院に関わる全ての方が、いつも笑顔で笑い声の絶えない、そんな医院にしていきたいと思います。